自由な遊びを

人狼、BBLその他自由にやります。批判は受け付けません。ですが偏見ではなく予断であります。

理不尽な社会ならば働くつもりなどハナからない

ASDADHD、LD傾向、現在抑鬱

効率主義、思想多様主義者であることを念頭に置いてほしいと思う。

 

本当は別のことを書きたい。
だがネタがない。ネタをくれ。

と言うことで誰も興味なさそうな話をする。

 


私は理不尽ならば働くつもりなどない。
こういうと偏見だと批判されそうだから予め言っておく。

 

偏見ではなく「予断」である。

 

じゃあなぜ働くつもりがないのか、解いていこうと思う。

 

理不尽なことをすることによる苦しみ

理不尽なことをすることによる苦しみに値をつけてみよう。

 

仮に理不尽なことをすることによる数値を500としよう

それでその500を上回る幸せを得られるのかと言う話である。

生まれてから一度も400(幸せの値)を越えたことがない。

それならば苦しみを味わうより、苦しんだとき死ぬ方が効率的だと思う。

 

理不尽なこととはなにか

理不尽なことと一概に言ってもアレなので、どのようなものなのかを説明しようと思う。

 

ラッセルのティーポットの証明

ラッセルのティーポットがわからない方は悪魔の証明のようなものと理解して頂ければと思う。

 

ラッセルのティーポットの証明は無理である。だが世間は求める。

世間はアホなのか? 証明できないことはラッセルのティーポットというわかりやすい例えがあるではないか。

なぜこのようなアホなことをしなければいけないのか。

このようなアホなことを耐えて耐えて耐え凌いで得られる利益は500を上回るのか。

 

理不尽なことを減らしていかなければ人類の幸せはない

少なくとも私は理不尽なことを求められて不幸せである。

私はたぶん地頭は悪くない。

 

小学校の頃のペーパーテストの成績は良かった

(なお態度点で通知表は良くなかったが)

 

有望な人材をこの社会は潰しているのである。

(私は理不尽なことを求められ中学時代潰れた)

 

たぶん私に似たような人はたくさんいると思うのだが、理不尽なことを求められるのが苦痛で仕方ない。

 

 

今画面を見てるあなたに言いたいことは

費用対効果のメリットを示せ

と言うことである。

 

メリットがないと私はやる気が出ない。

やる気が出なければ効率は下がる(ADHD

 

だから、私は中学時代に学校に行くことで金を貰えればきちんと登校していたであろう。

金を与えたくないならば、学校に行くことによって貰えるメリットを明確に提示していれば行っていただろう(ただしいじめられ体罰を受ける学校に勝るメリットがあるとは思わないが)

 

 

 

以上、一般人の皆様にはどうでもいいことであろうが、書かせていただいた。

頭の隅っこにでも置いてくれたら幸いです。

 

 

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では幸せを求めてさようなら~